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January 1512004

 鬱きざす頭蓋に散らす花骨牌

                           山本 掌

語は「花骨牌(はなかるた)・歌留多」で新年。今日は小正月、女正月だから、昔であれば「歌留多」遊びに興じる人々もあったろう。いまでも競技会は盛んなようだが、一般の遊びとしてはすっかり廃れてしまった。ただし、句の花骨牌は花札のことで、百人一首の札などではない。人によりけりではあろうが、句のように「鬱(うつ)きざす」感覚は私にも確かにある。さしたる理由もなく、気持ちがなんとなくふさいでくるのだ。落ち込んでも仕方がないとわかってはいるけれど、ずるずると暗い気分に傾いていく。こうなると、止めようがない。その兆しのところで、作者は「頭蓋」に花骨牌を散らせた。一種の心象風景であるが、百人一首や西洋のカード類ではなく、花骨牌を散らすイメージそれ自体が、既にして「鬱」の兆候を示している。花札は賭博と結びついてきた 陰湿な色合いが濃いので、花や鳥や月といった本来は明るい絵柄が、逆に人の心の暗さを喚起するからだろう。べつに鬱ではなくても、花札にあまり明るさを感じないのはそのせいだと思われる。しかしこの情景は単に暗いのではなく、どこかに救いも見えるのであって、それはやはり花や鳥や月本来の明るさによるものではあるまいか。頭蓋に散っている絵札のすべてが、裏返しにはなっているのではない。そこには本来の花もあれば、鳥や月が見えてもいる。だから、暗いけど明るい。明るいけど暗いのである。花札の印象をよく特徴づけたことで、句に不思議な抒情性がそなわった。『漆黒の翼』(2003)所収。(清水哲男)




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